クラシックルート巡礼〔冬季編〕
前穂高北尾根’
2001年12月19日《水》〜27日《木》
小倉(記録)・八尋
このルートは今年で連続3回目の挑戦です。過去2回は八峰にも達せず敗退しています。1回目はパートナーに日程を合わせたため、日数不足で敗退。2回目はパートナーがみつからず、単独で挑戦してラッセルに負けて敗退しました。仕事がサービス業のため正月は休めなくて、毎年冬山はこの時期に入山しています。この時期の冬山は他人のトレースを当てに出来ず、充実した山行ができます。ただ、パートナーをみつけるのに苦労します。八尋君は大学2回生だからあと二年は、遊んでもらえそうです。
自家用車を坂巻温泉にデポ(1日500円)して中の湯ゲートから荷物を担いで歩きました。冬の間、工事車両が行き来するので道路は除雪されていて歩きやすいです。河童橋を渡って梓川右岸の工事用道路を慶応尾根取り付きまで通りました。この道は明神まで除雪してあり明神からはだんだん積雪も増えて多いところでは40cmぐらいありました。途中からカンジキをつけました。慶応尾根を登ってすぐのところで幕営しました。
2日目からはアイゼンとカンジキの両方をつけて行動しました。2240mからは空身でテントが張れそうなところまで連続2時間ラッセルしました。下りは20分でした。そして登り返しは2時間30分でした。そして、2585mのコルで幕営しました。このルートの核心は六峰と三峰でした。22日、六峰のピークに日没寸前に到着しました。この日の行動で右手指3本、水泡が出来る程度の凍傷をやってしまった。数年前、明神東稜に行った時に凍傷になった指と同じで凍傷にかかりやすい。23日、三・四コルには昼過ぎについたが、明るい内に前穂のピ―クまで行けそうにないので、時間は早いが幕営した。 24日、出発準備を整えたが、天気が思わしくない、一応10時をタイムリミットとして天侯の様子を見ることにしました。でも、視界も悪いし、風も出てきて気温も下がってきた。ここで無理をして右手の凍傷を悪化させたくないので、停滞としました。
25日は、朝からいい天気で今回唯一の晴天でした。三峰に取り付くのはまったく初めてで、ルートが分かるか、心配でしたが、ポピュラーなルートだけあって何とか行けました。ただ、支点を掘り出すのに時間がかかりました。三峰は4ピッチでこなして、二峰で一回懸垂して、すぐ前穂の頂上でした。
それから吊尾根で一回懸垂しました。吊尾根は数年前に一度通過しているので不安はありませんでした。吊尾根は忠実に稜線を通ります。ただ、涸沢側にセッピが張り出しているので気は抜けません。奥穂のピークでヘッ電のお世話になり、白出しの冬季小屋に入りました。ここで山行中初めて登山者に出会いました。その人たちは、奥穂ピストン予定の大学生2人パーティーでした。冬季小屋で久しぶりに快適な夜を過ごせました。涸沢岳西尾根は今回で三回目の下降ですが、不覚にも1本手前の尾根を下降してしまい、行き詰まって、登り返しにトータル3時間ロスしました。
私たちがルートを間違っている間に先ほどの大学生2人パーティーが西尾根を先に下降してくれたおかげで、ラッセルなしでした。新穂高温泉からタクシーで自家用車をデポしてある坂巻温泉に行きました。運賃は1万円でした。坂巻で入浴後、会の冬山合宿(八ケ岳)に参加する八尋君をJR松本駅に送って山行は終わりました。これでやっと次の目標にとりかかれます。
12/19(晴) JR京都駅21:00発
20(雪/晴)中の湯5:30/7:35−上高地BT9:15−
慶応尾根1820m 14:00〔泊〕
21(雪) 1820m5:55−2240m10:00−2585m14:50
−14:00泊〕
22(雪) 2585m5:50−八峰8:20/50−六峰17:30〔泊〕
23(曇) 六峰7:10−三・四コル12:30〔泊〕
24(風雪) 停滞
25(晴/曇)三・四コル6:40−三峰12:20−前穂高13:20/40
−奥穏高17:40−白出しコル18:40〔泊〕
26(曇/雪)白出しコル7:00−新穂高温泉16:20/17:00
27(曇/晴)あやめ池4:30
(小倉)
雪のシーズンを終えて
小倉・八尋(記録)
十二月十九日、前穂高北尾根縦走出発の日がやってきた。この日僕はJR茨木駅まで行ったところでオ―バーズボンを忘れたことに気付いて取りに帰るという醜態を演じてしまった。小倉さんご迷惑をおかけしました。この山行から大阪には戻らず、直接正月の八ケ岳につなげるため、また、彼女も実家に帰るのでこれから二週間は離れ離れである。たかが二週間、と人は笑うだろうが我々としては生き別れになる安寿と厨子王、その母親の心境だったのだ(若い、ということは時としてとても恥ずかしいことです)。そのため車の中では延々と彼女とメールを交わしていたのだが、電池がなくなると困るので思い切って止めた。運転は全て小倉さん任せなのでさっさと仮眠に入る。この計画に限らず、僕は何から何までおんぶにだっこで恥ずかしいことだ。目が覚めると雪が降っている。寒い。暗い。いよいよ厳冬の北アルプスだ。装備を分けて車をデポし、まずは上高地を目指す。ところで、計画では北尾根縦走の後、穂高〜槍の縦走もすることになっていた。壮大な計画だ。
上高地までは工事関係者が入ってきており、歩きやすかった。他の登山者の姿は全くない。河童橋で休憩をとることにしたが、足元が凍っているので二人して何度か転んでしまった。橋を渡って対岸を歩き始めると、少しずつ雪が深くなっている。脹脛くらいまでもぐるようになったのでワカンをつけた。まともなラッセルの経験がなかった僕は「これってラッセル?」と思って喜んでいたが、この後に控える真のラッセルを知らなかった。いよいよ慶応尾根に入った。ここでアイゼンの上にワカンをつけて、本格的なラッセルを始める。慶応尾根。この名は僕に、ラッセルに継ぐラッセルを想起させる。とにかくラッセルの思い出しかない。その日は目的地点まで登りつけずに幕営した。次の日も、終日ラッセルをしたという以上の記憶がない。ラッセル、ラッセル。夜もラッセルの夢を見ていたほどだ。単純体力をひたすら消耗する割には日々の糧が朝はインスタントラーメン、夜はアルファ米にふりかけで、食べ盛りの僕には苦行だった。三日目にしてようやく慶応尾根を抜け、前穂高北尾根に入る。と同時に樹林帯も切れたため風が強い。眼鏡が一瞬にして白く曇った。慌ててゴーグルを出して装着したが、これも一瞬で曇った。こんなものに何の意味があるというのだ。僕は呆然となった。
僕は極端に視力が低い。両目とも0.01前後で、おまけに乱視である。眼鏡がないと生きていけないのだ。然るに目下の状況はどうだ、眼鏡の装着を許さないではないか。困った、どうしよう.考える間もなく、「五六のコルまで行くでえ」と言って小倉さんはさっさと八峰を登り始めた。僕は半分やけになって眼鏡を外した。この際眼鏡なんかないほうがましだ。小倉さんはもう見えないところに行ってしまった。後を追って登り出したはいいが、岩場に入ると死ぬほど恐い。不動あたりでのアイゼントレなぞとはまるきり別物だ。しかも、まだワカンをつけたままだった。僕はここで落ちて死んでいても不思議ではなかったと思う。小倉さんに置いていかれたことを少し恨んだ。泣きそうになりながら八峰を越えた。と、眼前に我々の前途を阻むかのように険しく、七峰が聳えている。小倉さんに何とか追いつくと、既に七峰を登ろうとしている。いかん、殺される。僕は恐ろしさのあまり、「ザイルを出してください」と泣き付いた。ついでにワカンも外した。アンザイレンすると途端にスピードが遅くなったが、滑落して死ぬよりはずっとましだ。しかしビレイ中に寒いのには参った。富士山ではオーバーミトンさえ暑くて脱ぎたいほどだったのに、ここでは下に分厚い毛糸の手袋をしていても指先の感覚がなくなるほど冷たい。ラッセル中は暑かったが、びょうびょうと風の吹きつける今、ヤッケの下がシャツ一枚というめはあまりに寒すぎた。震えが止まらない。五六のコル。夏行った時も寒くて眠れなかったっけ。五六のコルまで行こうというのなら、七峰、あと、六峰まで越えなくてはならないわけだ。うっかりしていて気付かないうちに峰を一つ越えてたりしないだろうか。だったらいいのに……。しかし残念ながら、その峰の向こうにはやはり、厳然と六峰が聳えているのだった。もう時間も遅く、薄暗くなりつつあった。身体も疲労しており、そして寒い。僕はここから生きて帰れるのだろうか、と不吉な考えがよぎる。
ようやく六峰を越えたころにはすっかり暗くなっていた。視界が悪いのでコルまで下りるのは危険だという判断によりその場にテントを設営したが、一寸した吹雪の中疲労しきってのテント設営がいかに嫌なものか、想像してみるといい。おまけにポールの内ゴムは低温のせいで伸び切っているし、分厚い手袋のせいで細かい作業もやりにくい。そしてテントの下はきれいに整地しなかったために大きな段ができていた。尤もこれだけ疲労させられるとそのくらいのことは取るに足りないことに思える。小倉さんは手の指先に凍傷を起こしていた。おまけに空腹だし、この夜僕は、まだ先に続く長い道程を思って暗澹たる気持ちになった。標高が上がったせいもあるだろう、夜はこれまで以上に冷え込み、シュラフの中でも寒くてたまらなかった。翌朝起きるとシュラフとシュラフカバーの間で結露して凍り付いている。ただこれは、僕がけちってゴアではないシュラフカバーを使っていたからかもしれない。
テントを撤収すると、次の目的地、三四のコルに向かった。五峰、四峰を越えればいいわけだからそう時間はかからないはずなので、昼までに着ければ前穂高本峰まで抜けてみようという話になった。三峰が核心である。夏に登ったときは恐いとも思わなかったが、冬はここまでの時点で既に十分恐い。ザイルをつけると時間を食うので、つけずに五峰を登り始めた。恐い。恐いが岩場は何とか行ける怖さである。むしろ雪のほうが恐い。「おいおい、この傾斜、大丈夫なのか?体重かけたら雪崩れたりするんじゃない?」と言うようなところが多かったのだ。しかも途中でアイゼンが外れて、しばらく気付かずに登りつづけてしまった。幸いにも危険な場所ではなく、探しに戻ったらすぐ見つかったから良かったが、万一難しい岩場の途中だったり、見つからなかった場合のことを考えるとぞっとする。
五峰を登り切ると、まだまだ登れよと嘲笑うかのように四峰が聳えている。四峰は少し回り込んで登り始めたが、一個所だけとんでもなくおっかない岩場があった。まず小倉さんが乗り越え、「自信がなかったら下から回り込んできたらええで」と忠告してくれた。僕は自信がなかったのでそうしようとしたが、そこは余りにも傾斜がありすぎた。もし本当に回り込もうとして足を踏み出したなら、雪と一緒に落ちていったことだろう。とはいえ、岩場のほうもかなり恐かった。ザイルをつないでもらおうと思って小倉さんを呼んだが、遠くに行ってしまったのか返事がない。必死になって岩にしがみつき、四、五回失敗した後ようやく登り切れたが、ここで滑落して死んでいても不思議ではなかった。
這う這うの体で四峰を越えると、成る程、『核心』と言われるだけの険しさをもって、三峰が厳然と聳立していた。「どこ登んねやろ」と小倉さんが言った。コルに着いたころは、昼はとっくに過ぎていて三峰にはチャレンジできない、さりとて飯食って寝てしまうには一寸早いというくらいの時間だったので、テント設営に力を入れ昨夜の分まで快適にできるようにした。それから僕は入山してから四日目にしてようやく、我慢に我慢を重ねてきた大便を排出した。寒いのと、足が痛くて長いことしゃがんでいられないので早く済まそうと力んだ結果、溜め込まれていた大量の大便によって肛門が少しばかり裂けてしまった。これが切れ痔というものなのだろうか。もう治ったので皆さんご心配なく。
小倉さんの凍傷は悪化していた。「早く下山したほうがいいんじゃないすか。何なら岳沢から」と言うと、「いや奥穂までは行く」と言い張るので涸沢岳西尾根から新穂高に下りることになった。翌日、いよいよ三峰に挑戦だ!と気合を入れて起きてみると天気が悪い。十時まで待機してみて回復しなければ停滞、ということになった。そして停滞になった。何もすることがないので一日中ラジオを聴いていた。その日はちようどクリスマスイヴである。ラジオでは『ラスト・クリスマス』やら『ハッピ一・クリスマス』やらその他のクリスマスソングが流れたり、スキー場に行って長野一ラブラブなカップルを探したり、楽しそうなことをやっていた。僕は彼女がいるというのに、クリスマスイヴにこんなところで何をやっているんだろう?寒い…。Tiffanyか、ふん・・・。小倉さんは時折行動食をかじりながらずっと寝ていた。冷え込んだテントの中、夕食までの間ラジオの時報に苛々しながら膝を抱えてじっとしているのは苦痛でしかなかった(夕食にしても、特に楽しみにしているわけではない)。夜になり、用を足すため外に出ると松本市の明かりが見えてますます寂しくなった。そして夜中は例によって寒くて熟睡できないのだ。
クリスマスの朝は晴れた。いよいよ三峰だ。流石に手応えがあった。が、初めからアンザイレンしていたためか、「死ぬかも……」とまでは思わなかった。三峰さえ抜ければ、後はそんなに苦労はしない。二峰はかわいいもんだし、懸垂を一回して一寸ばかり登ればすぐに前穂高本峰だ。ようやく着いた。苦労した甲斐があって、景色がいい。天気も、この山行中で一番良かったのではないか。ダイヤモンドダストも見れたし。
前穂から奥穂まで吊尾根を稜線に沿って行ったが、北尾根に比べるとどうということもなくがしがし進めた。ただ、思ったよりずっと長かったのには閉口した。歩いても歩いても奥穂につかない。途中雪庇を踏み抜きそうになって総毛だった。気を抜いてはいけない。事故というのは難所ではなくえてしてこういうところで起こるものだ。吊尾根の途中で日が沈んだ。山で夜になってもまだ行動しているのは恐ろしいものだ。胸が締め付けられるほどの強い焦燥感に駆られる(余談だが、山の後遺症だろうか、僕は下山したばかりだと町中でも暗いところを歩くのが少し恐い。何故皆ヘッドランプも持たずに夜道を歩けるのだろうと思ってしまう)。
僕は奥穂の頂上付近で幕営するものだと思っていたが、小倉さんは冬期小屋まで行くと言う。正直もう歩きたくなかったが、やむを得ない。小倉さんはリーダーだ。小屋まで下りていくのに一番恐かったのは鉄梯子を下りるところだ。冬はあんなもの、いっそ外してほしいと思う。小屋の辺りまでたどり着くと、人がいて、ランプを照らしながら「おーい冬期小屋こっちだよー!」と呼んでくれた。今回他のパーティーに会ったのはこれが初めてだった。しかも小屋に入ると温かい紅茶を振る舞ってくれた。そのパーテイーは大学生二人組で、涸沢岳西尾根から登ってきて、明日奥穂のピークハントをして同じコースで下る予定だという。
既に次の日の下山が決定して少し食料に余裕があったので、その夜はラーメンライスだった。それまで粗食に耐えてきた身としてはかなり豪華に思えた。おまけに小屋の中にテントを張ったことで、久しぶりにぬくぬくで眠れた。翌日、もう下山ということで僕はかなり気楽に構えていた。今までのような難所はないらしいし、気を抜かなければそう苦労はしないだろう、と。
その朝はガスだった。小屋を出て涸沢岳頂上まで一気に上り詰め、小倉さんが西尾根の同定を行うと下り始めたのだが、途中でどうも様子がおかしいことに気付いた。小尾根のようなものが密集しており、西尾根がどの尾根なのか判然としない。ガスが少しずつ晴れていく中、今にも雪崩れそうな斜面を何度も横切り確認した結果、西尾根とは違う、夏場の下山道にあたるところを下りてきていたのだということを知った。冬には雪崩の危険性があり使われていないらしい。つまり、今にも雪崩れそうな、そして実際雪崩れることもある斜面を引き返さなくてはいけないということだ。雪崩れそうな斜面の通過は岩場の通過とは違い、自分の力ではどうにもできない恐怖を感じる。しかも、引き返す途中またアイゼンが外れてしまった(やはり、ルートファインディングくらいは各人ができるという前提でパーティーを組むのが望ましい。それを全面的にリーダーに頼っていた僕の態度は非難されて然るべきものだと思う)。
ようやく涸沢頂上に辿り着き、そこからは正しいルートを下り始めた。我々がミスコースしたおかげで、例の大学生二人組が先行してラッセルをしてくれたので歩きやすい。大した危険箇所もなく、長い尾根をただひたすら下りに下った。西尾根を下りきった時点でアイゼン、ピッケルを仕舞い込んだ。新穂高に着いたのは暗くなってからで、そこからタクシ一を呼んで車のデポ地点まで戻り(メ―ターが上がるたびに僕の顔色が青ざめていったのは言うまでもない。ちなみにこの時のタクシー代は小倉さんにつけてもらっている)、温泉に入ってようやく人心地ついた(温泉代も小倉さんが出してくれた)。「いや〜実際何回か死ぬかと思いましたよ。生きて下りれて良かったあ」と僕が言うと、「いや〜ほんま、生きててくれて良かったわ」小倉さんはあっけらかんとして言った。一寸恐かった。こうして、僕の一番長い一週問は終わったのであった。小倉さん、本当にお世話になりました。多分福島の中で僕に一番貸しが多い人だろう。いつか返さねばと思いつつも、総額いくらになるのか聞くのが恐いために僕は未だ沈黙を守っている。車で松本まで送ってもらうと、僕は疲れた体を引きずってコインランドリーに向かった。正月の八ケ岳集合までに汚れ物を洗っておかなくてはならない。あ、それから彼女にも電話しようっと。
To be continued‥
(八尋)
